インターンシップ実習生レポート    2001年春版


中央大学法学部政治学科 山本健太 


 大学3年の後期ともなると、さすがにそれぞれの進路に関して、まわりは動き出してくる。私はというと、就職に対して具体的なイメージもわかず、ただなんとなくまわりに合わせて、就職のサイトを覗いて、自分のメールアドレスを登録してみたり、だからといって送られてくるメールにはほとんど目も通さず、自分のやりたいことが見つからずにいた。進学しようにも自分は何をやったらいいのか…。思い返してみると、今までの自分の生き方というものは、先延ばしを繰り返していたような気がする。義務教育から、「とりあえず」で大学まで来てしまい、学生生活が永遠に続くかのような錯覚に陥ってしまったようだ。「自分はこのまま、とりあえず就職してしまっていいのか?」―自分の性格から言って、1度このような思いに駆られるとそれを吹っ切るのは難しい。春休みをただだらだらと過ごしてしまうのは目に見えて分かっていた。ならばこの学科(私はいちおう政治学科です)に進んだ理由を、今一度自分に問い、やりたいことをやってみようと思った。そうすれば、自分の中に何かが残るし、刺激を受けることもできる。

 これが、私がインターンに参加してみようと思った理由だ。以下では、インターンシップに経験を踏まえて、私の感想を述べていきたいと思う。




@ 合併について―対等合併と首長選挙―

 2001年1月21日、西東京市が誕生した。情勢に疎い私が、この合併のことを知ったのは、インターンに行くことが決まった直前だったと思う。だが、この合併ということが森さんのもとに行くことを決めた理由の一つでもある。というのは、私が住む大宮市も、今年の5月1日に合併をひかえているからだ。そこで、21世紀初の対等合併といわれる西東京市で、合併後どのような影響があるのか体験したいと思った。さいたま市とは規模、合併する自治体の数も異なるとはいえ、なにか参考になることがあると思ったのだ。

 私はインターンに来てはじめて西東京市に足を踏み入れたということもあって、合併のプロセス、事実関係について詳しく述べることはできない。そこでどうしても主観的な感想になってしまいがちだが、まもなく合併する大宮市民としてどう感じたか、という観点から述べていきたい。

 合併という話が出ると、必ずそのメリットばかりが強調される。財政規模が拡大し、行政サービスが向上し、市民の生活がよくなる…等々。しかし、これはよく考えてみると当然の話だ。メリットがあるから合併するのであって、メリットのない、あるいは少ない合併など本来ならありえない。歴史的に存在する自治体と自治体との境界線をとりはらうのだから、それに見合った合併効果というものは強調されるべきものではなく、あってしかるべきものだ。西東京市でも、合併効果が盛んに強調されていた。両市が合併すれば飛び地が減って、行政サービスが効率化される。簡単に言えばこんなことだったと思う。確かに、合併後の市の形を見れば、いびつではなくなったと思う。しかし、隣接していたとはいえ異なる二つの組織が、統合されて業務を行なうとき、完全にスムーズにいくと言えるのだろうか。地域間格差は残らないと言えるのだろうか。

 そうではないと思う。旧保谷市役所と旧田無市役所とでは、システムのIT化の進み具合に違いがあったという。この差を埋めていくのにもそれなりのコスト(時間的・財政的)がかかるだろうし、その違いが混乱をつくりだすかもしれない。新たな南北問題として注目されているデジタル・デバイドは、自治体間にもあったのだ。いや、合併によって生み出されたと言ってもよい。また、旧保谷市役所には設備の充実した防災センターがある。これは三宅島をリアルタイムで監視できる機能も備えたものだった。災害時には、ここから様々な意思決定(非常事態宣言など)が行なわれるという。しかし、災害時に本部長となる市長が、普段職務を行なうのは旧田無市役所だ。これで、被害を最小限に抑えるような迅速な判断が行なえると言えるのだろうか。いくら充実した設備があるとはいえ、そこで得られた情報を本部長(市長)が手にすることができないとしたら、なんの意味もないと思う。防災の担当者は、市長には旧田無市役所から旧保谷市役所まで移動してもらうと言っていたが、阪神・淡路大震災の教訓が生かされていないと言わざるをえない。さらに、心理的・感情的な面でもすれ違いはあるようだ。多くの議員、職員の方の話を聞く機会があったが、「○○市の議員(職員)は…。」ということを聞くことが度々あった。旧両市の議員、職員のあいだに、仕事のやり方に関して温度差があったと言える。対等合併であれば、感情的に言ってどちらかが1歩引くということにはなりにくいのではないか。それが市民生活に支障をきたす可能性もある。

 さいたま市はどうだろうか。これは私の主観も入ってしまうが、浦和市は県庁所在地ということで“政治のまち”という誇りを持っている。一方で大宮市は、新幹線が停車し、経済が発展していることから“商業のまち”という認識がある。与野市は、人口・面積などの面から言って、大宮・浦和に比べると主張できるものが少ないと思う(この点は問題だ。事実上、与野市のみ吸収合併というかたちになっているからだ)。西東京市での経験を踏まえ、さいたま市誕生後の状況を考えるとメリットばかりとは言いきれない。さいたま市誕生後も、地域的な対立が残ることは容易に想像できる。上のような特徴を持つ浦和市と大宮市と尊重しあうということは難しいのではないだろうか。合併後の新市の名称を決めるときに、「大宮市」が最終選考まで残ったことからしても(大宮側が主張し譲らなかった)、融和は難しい。防災本部も、現在浦和と大宮で争そっているという状況だ。

 このような地域間対立を象徴するのが、市長選挙だと思う。西東京市では、旧両市の現職が立候補し、事実上の一騎打ちとなった。そして選挙後には、様々な疑惑を残し(偽電報疑惑、中傷ビラなど)、現在まで続く問題となっている。合併を推進し合意をした現職の市長が、争うというのは問題だ。融和とはほど遠い。言葉は悪いが、「のっとり」のようにも思われる。さいたま市でも、浦和・大宮両市の現職市長が立候補を表明し、一騎打ちは避けられない状況だ。「第3者」である与野市の市長が、両候補の対決をあおる発言をしているのも気になるところだ。西東京市の現職の議員・職員が、大宮まで足を運び、さいたま市に対して忠告を与えてくれたようだが、おそらく効果はないだろう。

 合併、そして市長選挙の立候補予定者の状況など、西東京市とさいたま市は類似点が多いと思う。そしてそこに共通して見られるのは、いったい誰のための合併か、ということだ。市民の視点が欠けているような気がしてならない。西東京市と違い、さいたま市では合併に関する住民投票も行なわれていない。市、あるいは市長の威厳のために行なわれている気もする。そうでなければ、市民の安全を第一に考えなくてはならないはずの防災本部は、新市の地理的な情勢を考慮して決められるはずだし、「初代市長」の座をめぐって、現職市長同士が争ったりしないはずだ。市長、議会、行政は、もっと市民の視点を持つことが重要だ。そのために積極的な情報公開を行ない、合併の“デメリット”も説明する必要があったと思う。と同時に、今まで地元には興味を示さなかった私はもちろんのことだが、市民の成熟が求められていると思う。




A 政党政治のあり方について

 国会をはじめ、政治=政党政治という常識が成り立っている。地方議会では、政党属さない議員は少なくないが、無所属であっても「会派」というかたちで連合している場合が多いので、実質的には政党政治が行なわれていると言ってよいだろう。つまり、完全に1人の議員として議会に出席しているというケースは稀だ。これには、以下のような理由が考えられる。つまり、民主主義が多数決原理で動く以上、小人数の集団より多人数の集団の利益のほうが政策に反映しやすいというものだ。1人じゃ何もできないし、議員になっても何一つとして、市民の利益を反映させることはできないということだ。

 このような政党のメリットがある中で、森さんは西東京市議会で唯一の無所属だった。政党政治の論理から言えば、議会では何もできない存在だ。私もインターンを始めたて間もないころ、無所属の議員のもとで勉強しているという話を知人にしたことがあったが、そこでもやはり1人で何ができるの?ということを問い詰められた。議員として送り出した以上、何か政策を実行することが議員の役目、ということだった。このことに関して森さんと話したことを踏まえて、私の意見を述べていきたい。

 確かに、政党(会派)が現在の政治を動かしているということは、ひとつの現実として受け止めなければならない。しかし、政党に入らなければ何もできないというのは間違いだ。1人でもできることはある。議員は1人で活動しているときでも、議会、市長、行政の動きを市民に伝えることはできる。市民はそれを知ったなんらかのリアクションを起こす。その市民の反応が、議会にも影響し、政策も変更されるかもしれない。このように、議員は自らがメディアの役割を担い、市民に問いかけることによって、間接的だが大きな影響を議会に及ぼすことができる。ここでも重要になってくるのは、市民の成熟度だと思う。議員がいくら市民に訴えたところで、なんの反応も起きないのでは意味がない。議会の外から議会をコントロールする市民の力をつけていかなくてはならない。それは4年に1度の選挙だけでなく、常に求められているといってよい。 

 また、1人の方がよいこともある。政党に所属する議員というのは、政党(会派)の公認をうけて活動するわけだから、当然政党(会派)の方針には従わなくてはならない。ここで、政党(会派)の方針と議員個人の意見とが同様なら問題はないのだが、全く異なることもある。このようなとき、政党(会派)に所属する議員は離党しないかぎり、自分の意見を曲げなくてはならない。つまり、政党に属したとしても市民に負託された議員個人の意見が反映するとは限らない。このため、市民の意思が全く違ったものとして現れるかもしれない。この点は、無所属の議員には関係ない。原則として言いたいことは言えるし、組織と個人のしがらみといったものはない。市民が議員に対して期待したものをそのまま表現することができる。表現はできても、政策には関係ないという批判もあるが、そんなことはない。森さんによれば、議案の8割には賛成しているという。もちろん議員個人の意思としてだ。このように、政党に所属していなくても政治は行なえるし、むしろメリットがあると言ってよい。現在の無党派ブームも、政党政治にうんざりした市民が、何か別のオルタナティヴを求めて起こっているものだと言えるのではないか。

 ただし、次の点には注意しなくてはならないと思う。第一に、政党に属していないがゆえに、主張する政策の大枠が見えづらいということだ。政党が持つイメージ、実績、既得権というもを全く使えない(これがむしろ有利に働くこともあるが)ために、より声を大にして訴えなければ、支持は広がっていかない。第二に、1人で活動していると、他の議員から得られる情報が少ないということだ。議会での森さんの質問の中に、「マスコミではこう言われていますが…」という内容のものがあった。そこでは、他の議員から「マスコミを信用しすぎだ」という主旨の野次が飛んだ。私も、マスコミが全て間違っているとは思わないが、過度に信用するのは避けなくてはならないと思う。したがって、独自に情報を得られるルートを作っていく必要があると思う。

 以上のように、政党に入らなければ政治はできないということはない。たとえ無所属でも政治は行なえる。というより、少なくとも地方において議員が1人でも活動できるような環境が整わなければならないと思う。議員とは、政党の代表ではなく、市民全体の代表だ。市民の方を向いて政治をするには、まず政党ありきであってはならないと思う。




B 議員とはなにか―専門性と市民感覚―

 さて、最後に議員とはなにか、どうあってほしいかという、理想について書きたいと思う。まずこのインターンであった二つの出来事から述べたい。1つは総務委員会でのことだ。市長の選挙疑惑をめぐって、徹底調査を求める陳情が、署名約7000名(現在では10000名に達しているらしい)とともにだされた。この陳情は結局、調査の権限が議会にあるかどうか法解釈で対立し継続審査となった。二つ目は、本会議で予算を採決するときの出来事だ。予算は賛成多数で可決されたが、このとき1人の議員が欠席して採決には加わっていなかった。その議員は、予算の採決のあとは議会に戻ったので、健康上の理由で予算の採決を欠席したのではない。明らかに予算の採決だけ欠席した。

 この二つのことから私なりに考えたことがある。まず1つ目についてだが、「法律にのっとって」という姿勢は分からなくもないが、厳格な法解釈は、司法試験を通った法曹三者でももめるものだ。それを法律の議論などやってこなかった議員がやって、適確な答えが導き出せるのだろうか。言いかえれば、「専門性」というのは議員に求められるのだろうか。もちろん、議員1人1人によって個性は違うし、得意なものは持っていてもよい。しかし、議員は議員であり、選挙に当選さえすればよく、法のスペシャリストではない。法をあつかうだけなら、行政マンのほうがよっぽど詳しい。では議員には何が求められるのか。それは市民感覚だと思う。7000名もの署名を集めて陳情してきた市民の声を聞くのが議員の姿だと思う。議員はスペシャリストではなく、ゼネラリストでなくてはならないと思う。

 2つ目については、欠席した本当の理由はわからないが、市民を裏切る行為だと思う。議員と一般市民との違いを1つ挙げるとすれば、議会で議決権を持つことだ。一般市民はどうあがいても、議会の議決には参加することはできない。その代わりに、4年に一度の選挙で、自分の支持する候補に議会での議決権を委任する。したがって、一般市民は議員の意思表示には文句を言えないというタテマエになっている。これが間接民主主義だ。しかし、欠席した議員は何の意思表示もせずに委任された議決権を放棄した。しかもその案件は、暫定とはいえ最も重要な予算についてだ。いったい市民にどのような説明をするのだろう。賛成であれ反対であれ、何らかの意思表示を行なえば、市民はタテマエ上異論を挟めない。しかし、意思表示をしないということは、議員の存在意義に関わる問題だと思う。やはりここでも、市民感覚が重要だ。市民の代理人という意識があればこのようなことは起きないと思う。このような「市民派」の議員がもっと増えて欲しいし、議員を市民寄りに変えていくシステム(例えば議会の夜間開会など。現在のように、平日の昼間にやっても、仕事をしている人は議会を傍聴したくてもできない。実際、傍聴人はほとんどの日で、1ケタだった)を構築していかなくてはならないと、私は考える。




・おわりに

 このインターンに参加して、政治に対する考え方がはっきり見えてきたような気がします。

 恥ずかしい話ですが、メディアを通さない現実の政治に近づいたのは、今回が始めてでした。ここでは書ききれませんでしたが、たくさんの政治に対するイメージが変わりました。自分の実力が足りないために、消化不良になったこともありましが、色々なことを体験することができました。貴重だったと思う反面、今後の政治が心配です。このインターンで学んだことをもとに、合併について大宮市議にヒアリングを行ないましたが、必ずしも納得のいく、明快な答えではありませんでした。大宮のレベルはこんなものか。今まで自分がどれだけ政治に無関心だったのかもわかりました。

 最後になりますが、森さん、2ヶ月間ありがとうございました。合併に関する細かい事情だけではなく、政治に対する姿勢はとても勉強になっています。松内さんには、僕の他愛のないお喋りに付き合ったくれたことに感謝します。それもよい勉強になっています。これからもしばらく出入りすることになりますが、改めてよろしくお願いします。





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